
小学校の前に大きなお屋敷があった。道路よりも一段高いところにある門はいつも閉じられたままで、周囲にも高い塀がめぐらされ、外からは中の様子をうかがうことはできなかった。
この屋敷も連合軍に接収され、米軍軍政部の高官らしい一家が住むようになった。主らしい男はいつも酒を呑んだときのように赤い顔で、軍服姿のこともあれば背広姿のこともあった。ジミーかトニーか、ともかく平凡な名前の男だったと思うが、忘れてしまった。
やがてその姿を学校でもよく見かけるようになった。気さくな彼は校庭にもよく姿を見せ、大量のテニスボールくれたり、珍しい運動をカタコトの日本語で教えてくれるようになり、僕たちは次第に彼になじんでいった。何よりもこのテニスボールが彼の人気を高めたことは間違いない。
それまで僕たちは手作りのボールやバットで、三角ベース野球に熱中していた。手作りのボールと言っても、丸石やラムネ玉を芯にして、その周囲を綿やボロ切れでくるみ、凧糸で縫い上げたしろもので、バットがうまく芯に当たれば「カーン」とまるで硬式のボールを打ったような鋭い音を発するが、ゴロを打つとすぐに糸を引き、やがて弾けてしまうのが難点だった。
このあたりのことは同年生まれの阿久悠氏描くところの『瀬戸内少年野球団』に詳しい。全くあの通りだった。
だから、その米兵がくれたテニスボールは本当にありがたかった。もっともそれが硬式テニスのボールだと知ったのは随分後のことだったが……。ただ、難点はこのボールを芯でとらえると飛び過ぎることだった。すぐに校庭を飛び出して田んぼの中で行方不明になってしまうのである。