
村には一戸だけ、敗戦直前に関西から疎開してきた一家が住んでいた。
農家の蚕小屋だった二階建てを改造して、そこに親子八人が暮らしていた。S家の実家はもともとM市の中心街だったそうだが、実家はとうに人手にわたり、空襲のひどくなる一方の大阪から強制疎開で、ここにひとまず落ち着いたということだった。
僕はその家によく出入りするようになった。周囲の農家とはどこか違う、この一家が漂わせている都会の匂いのようなものに引き寄せられたのかもしれないが、必ずしもそれだけではない。
もともとわが家も、道路の拡張により街中から移転してこの部落に住みはじめてまだ十年足らず、すっかり部落に溶け込んだとは言いがたい周囲の雰囲気を子供心ながら折に触れて感じていた。そのわずかなひび割れのようなものが、極端な食糧不足の中で、かなりあからさまな形で露呈しはじめていた。
周囲の農家は、当然のことながら規模の大小こそあれ、どこも田畑を持っていたから自家消費米には困らないが、田んぼも畑もないわが家は極端な食糧不足に見舞われて苦しんでいた。小学校低学年の僕を頭に食べざかりの四人の妹をかかえ、母は食糧の確保に懸命な毎日だった。
その点、疎開してきたばかりのS家の食糧事情はもっと厳しかったはずである。周りは農家ばかりなのに、食糧はなかなか手に入らなかった。そんなこんなで、同病相憐れむわけでもなかろうが、自然とS家と親しくなり、母もよく出入りしては、S家のおばさんとわずかの芋や野菜を譲り合ったり、食糧情報を交換し、互いに不足をかこちあっていたようだ。
戦争末期から終戦直後のわが家の主食は薩摩芋だった。
琉球芋がなまったのだろう、薩摩芋のことを「リューキ芋」と呼んでいた。百坪ばかりの家庭菜園はすべて芋畑に化け、小学校の校庭もすべて掘り返されて芋畑になっていた。
戦後になると、進駐軍に接収されていた練兵場が一般に開放され、みんなが争って練兵場を開墾し、そこに芋を植え、裏作には麦を植えた。わが家のような非農家にもわずかばかりの地面が割り当てられ、母は一日の大半をその畑の開墾と芋作りに精出した。
秋になると、大きな池の向こうにある開墾畑から収穫した薩摩芋を、近所の農家を拝み倒して借りてきたリヤカーや大八車に積んで運び込んだ。
今では農家でももう死語だろうが、「朝星夜星」という言葉がある。まだ星が明滅する早朝から働きだし、星が次第に明るさを増す日暮れまで野良で働くことを言った。
母の毎日はまさにその「朝星夜星」だった。僕は学校から帰ると、畑仕事のほとんど、芋の畝作り、苗植えから収穫まで手伝わされた。収穫時になると、蔓や葉っぱをつけたまま、もちろん泥つきの芋を大八車に積み込んで、母が引き、僕が後押しをして家路につく。「家路につく」などという形容も今ではほとんど使われなくなっているが、まさしくそんな感じだった。
練兵場の畑から自宅までは三十分以上はかかる距離だった。まだ手元がほのかに明るい頃合いに畑を出発しても、わが家の近くになるともう日がとっぷり暮れ、上空の星が明滅を始めていた。子供心にも何だかせつなかった。
こうして掘り出した芋は、納屋に掘った深い穴の急造貯蔵庫に蓄え、冬から春先にかけて毎日少しずつ蒸かしたり、雑炊にまぜては主食にしていたのである。
農林一号とか農林二号という芋の品種を覚えている。戦時中、おそらく食糧増産のために品種改良された、水っぽくてあまりおいしくないが、とにかくでっかい芋がたくさんできる。
芋粥は甘みがあっておいしいものだが、米粒がわずかに浮かぶ芋雑炊はそんなにおいしいものではない。杓子ですくって茶碗によそっても箸にかかってくるのは芋ばかりで、米粒はすするほどしかない。そんな芋雑炊だった。
その薩摩芋だってふんだんにあったわけではない。ある時、母が雑炊の増量材に芋の茎を刻んでまぜたことがあった。茎についているうぶ毛が喉を刺激して、とても食べられたものじゃなかった。しかし、それとて贅沢というものだった。