
間もなく仮住まいから解放され、自前の校舎に引っ越すことになった。
川を挟んで一キロ足らずのところにあった商業学校の跡がわが四中の新校舎である。と言ってもむろん新築であろうはずがない。商業の校舎をそのまま使って、仮住まいの三中から机や椅子を全員で運んだ。
そのようにして初めて自前の校舎に入ることが出来た。
しかし、混乱は続いていた。この年六月、朝鮮戦争が勃発、その後遺症は今日まで尾を引いているが、世の中は何となく騒然としていた。きっとそんな社会の混乱が田舎の学校にも反映していたに違いない。学校の中も騒然としていたように思う。
その混乱が端的に現れていたのが教師の暴力ではないかと思う。
よく殴られた。僕を殴らなかった教師は校長を含め全校で二人だけだった。僕が特別ワルだったわけではないと思う。男子は例外なくほぼ全員が毎日のようにビンタや拳骨をもらったり、黒板消しやチョークを投げつかられたりした。数少ない女教師からもちチョークが飛んできた。とにかく体罰が日常だった。
それもみんな他愛のない理由からだった。私語が多い。授業についてこない。始業時間に全員そろわない……。
あるとき、昼休みにバスケットに興じ過ぎて、十人ばかりが音楽の授業開始に遅れた。全員整列させられ、順番にビンタをもらった。二十になったばかりの今で言えば熱血音楽先生はいつもより強いビンタを張った。痛かった。
ところが、そのうちの一人は耳が弱かったので、鼓膜が破れてしまった。さすがにこの教師もやり過ぎたと思ったのか、おそらく辞表を出す、受け取らぬという騒ぎになったらしい。が、結局、何のお咎めもなし、鼓膜の破れ損ということで幕となったと記憶する。
大人も子供も「けしからん体罰だ」と特段騒ぎ立てるようなこともなかった。それも日常のひとこまとみんな受け止めていた。
それにしても、よく殴られた。後年、教師の一人に聞く機会があったので、尋ねてみた。
「どうしてあんなに殴ったのですか」と。
「自分でもよくわからんが、おそらく我々教師もどうしていいのか分からなかったのだと思う」という答えだった。
そうだったろうな、と何となく納得してしまった。まだ敗戦後の混乱が続く時代だった。