
今から思えば、学校の混乱は依然として続いているようだったが、当の僕たちには それが当たり前だったから普段は何も気にならなかった。
学校ではスポーツも盛んだった。小学校では野球をやったが、これは補欠のままだったので野球部はあきらめ、バレー部に入ってみた。小学校にはバレー部がなかったので興味があったのである。しかし、バレーも補欠にしかなれそうもない。僕より上背もあり、ボール捌きもジャンプ力も上の子たちがいくらでもいた。
何もかも補欠では悔しい。そう言えば家に父の使い古しのテニスのラケットがあった。そうだ、テニスをやってみよう、と思い立ったが、学校にはまだテニス部はない。なければ作ればよい。放送部のときと同じで、またもや僕は同じ希望を持つ友人たちと語らってテニス部を作りたい、と先生に請願したものだ。これまたあっさりOKになり、部員数人のテニス部(軟式)が誕生した。
毎日暗くなるまで校庭の隅っこの一面だけのコートで練習を続けた。指導者なしの練習だから見よう見真似である。練習を終えると、学校近くの駄菓子屋で一個十円のコッペパンをかじりながら例のラジオ屋さんに駆け込むのである。
それでも我がテニス部は初めての市内大会に出場、何と団体戦で準優勝をはたしたのである。快挙、快挙と自分たちだけで喜んだ。
スポーツのなかではやはり野球が最も人気もあって部員も多い。ちょうどレフトの守備位置のあたりがテニスコートになる。でかい当りになると左翼手がコートの中までバックしてきて「邪魔だ! 邪魔だ!」と怒鳴られることもしょっちゅうだった。
三年生になると、僕はテニス部と放送部をかけもちし、さらに応援団長もやっていた。この頃になると各中学校とも対外試合が盛んになり、つれて応援も盛んになってきていた。
「言うことをきかない奴は叩いてもよい」
確か応援団長を引き受けたとき、担当の教師はそう言った。
放課後、校庭に全校生を集めて応援の練習が始まる。応援と言っても、これも見よう見真似で、リーダーの数人だけが校章の染めぬかれた手旗を持ち、それを左右に振りながら、出来たばかりのうろ覚えの校歌を歌ったり、「フレー、フレー」と全員で手を振るだけのことだ。
どうみても楽しいものじゃないから、ふてくされたり手を抜くものもいる。「手が挙がってない!」「声が出てないぞ!」などと怒鳴りながら、僕は教師の言葉を真に受けて、同級生でも下級生でもよく手旗の竿で遠慮なく叩いた。
学校公認の体罰である。これは生徒たちから恨まれた。無理もない。
叩かれた生徒のなかには、僕に向かってこないで、二年下の妹を体育館の裏に呼び出して仕返しをするものもいたようだが、妹はなにも言わなかった。友達がそれを教えてくれた。