
「民青」から入団の誘いを受けたのは、それから間もなくしてだった。
後の「ミンセイ」は新左翼各派から目の敵にされ、その対立は深まる一方で、今日にまで及んでいるが、当時は確か「日本民主青年団」という名称だった。まだ半ば非合法時代の空気を残している組織だった。
おそらく日本共産党がソ連の「コムソモール」(共産主義青年同盟)を真似て、将来の共産党活動家の教育・養成を目指した組織であったに違いない。
その「民主青年団」に「入団」したと言っても、特別に活動した記憶はない。せいぜい機関紙「ワカセン」を定期講読するくらい。略称「ワカセン」は、「若き戦士」の略称。共産革命の「若き戦士」というわけである。「ワカセン」は謄写印刷で、題字の横に革命旗を掲げ、斜め上空を見上げる若い男女のカットが描かれていた。
ところが、「入団」して間もなく、夏休みに東京で開かれるその「民青」の大会に参加を要請された。好奇心半ば、使命感?半ば。僕と同級生のIの二人で上京することになった。と言っても、二人とも東京は初めて、第一その旅費の工面を親に頼むわけにもいかないから、弱った。
高校生のカンパくらいではとても旅費をまかなえない。思い余って、そのころ教組の専従になっていた中学時代の恩師を訪ね、何とか旅費をカンパしてもらった。
こうして僕とIは、松江〜京都、京都〜東京と鈍行列車を乗り継いで二十四時間かかって生まれて初めての東京に着いた。手元にあるのは、八重洲口のビルのアドレスだけ。そこで行先を指示されるという。
さて、東京駅に着いたものの、そのビルがどこにあるやらとんと見当もつかない。えいままよ、とばかりタクシーに乗った。するとタクシーの運転手さんは駅構内を出て信号をひとつ越えたところで、「ここだよ」と不機嫌に言う。何のことはない。そのビルは徒歩数分のところにあった。
さて、そこからが不思議だった。探し当てたビルには案内の人がおり、早速、何度も電車を乗換え大きな川を渡り、一軒のしもたや風の民家に案内された。その家の二階で、その人は細々とした注意を与えた後、窓を開け放って、「逃げるときには、ここから屋根伝いに逃げなさい」と言う。
「エッ、逃げる?」
何のことだか、分からなかった。彼は一通り注意を与えると、一階に降りていき、今降りたばかりの梯子をはずしてしまった。これで僕とIはもう下には降りられない。これにはまた驚いた。
そんな具合にして僕の東京での初めての夜はふけていった。暑い夏の日だったが、夕日がめっぽう美しかったのが、まなうらに焼きついている。横町からは子供たちの遊ぶ声や夕げの支度の焼魚の匂いなどがただよっていたような気がする。いや、それともそれは後に上京してからの記憶が入り交じってしまったのか、定かではない。。
だが不思議なことにその「民青」の大会の様子や内容は全く記憶にない。いくら記憶の底をさらっても何も出てこない。覚えているのは、「いざとなったら逃げる」ために窓から下見したどうやら東京の東部らしい下町の匂いと、潮騒のように押しては引いていく騒音だけである。
不思議な東京初見参だった。